Note of creation

可処分時間は、処分可能な時間なのか

「可処分時間」というワードをよく聞くようになった。

「処分」が「可能」な「時間」、つまり、「スキマ時間」のことだ。

Netflixはこの「可処分時間」を増やして、ユーザーの多くの時間をコンテンツ視聴に費やしてもらおうと戦略をたてたし、Audibleなどのサービスのシェア率も上がってきているのは、「スキマ時間」を活用して、本の内容を頭に入れたいという人が増えたからだろう。

通勤、通学の時間———

歯磨きの時間———

眠りにつくまでの時間———

ほんの10年前よりも、はるかに「スキマ時間」が増え、そこを活用し「タイパ」をあげようとする人も増えた。

しかし、本当に処分可能な時間など、あるのだろうか——。

「スキマ」として、何かに活用できる時間など、あるのだろうか。

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作品を創作するにあたって、「何もしていない時間」ほど重要なものは、かつてなかった。

美術史や音楽史を見渡してみても、何もしていない、「暇な時間」に、ある発想を得て、作品をつくり、それが後世まで残る名作になった例は、数えることができない。

歯磨きという、「処分可能」な「スキマ」、他のことに「活用」できるはずの空間——それを「無駄にしない」ようにするための、さまざまなコンテンツができているが、歴史を鑑みると、創作においてこれほどまでに有益な時間はなかった。

通勤、通学中のぼーっと外を眺める時間、何をすることもなく、歯ブラシを動かす手と、その音、眠りにつくまでの、意識にのぼりもしない浮き上がっては消えていく泡のような、重層的な考え———それらは、処分可能な、他のことに活用すべき「スキマ」なのではなく、それ自体貴重な、創作の原動力になる「醸造期間」であるように思う。

「醸造」——発酵をまつこの時間があるからこそ、作品は奥行きをまし、一見理解できないような、しかし人を引き込むものになるのではないか。

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